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道(どう、古典ラテン語:、ギリシア語: または )とは、帝政後期のローマ帝国における最大の行政区画である。中分類の管区や小分類の属州よりも上位に位置づけられていた。その統治にはプラエフェクトゥス・プラエトリオ(道長官)が当たる。「行政区」「道管区」と訳されることもある。 道が創設されたのはコンスタンティヌス1世の治世である。4世紀の後半にほぼ最終的な形となり、7世紀に東ローマ皇帝のヘラクレイオスの改革によって道の権限が縮小され、イスラーム帝国の侵略を受けてテマ制が導入されるまで存続した。道が持つ行政機構としての要素は東ローマ帝国の9世紀前半の文献によって残されている。 == 歴史 == === コンスタンティヌスの改革まで === 道の統治を行うプラエフェクトゥス・プラエトリオの職務には長い歴史があり、ローマ帝国成立まで遡る。初めは、プラエフェクトゥス・プラエトリオの権限を持つ者(定員2名)はプラエトリアニ(親衛隊)の指揮官であった。しかし、徐々に皇帝の補佐官の筆頭となり、行政・司法面でも大きな責任を担うようになった。特定の領域における非軍事的な行政官の長へと変質していった正確な過程は、いまだに不明確である〔Kelly (2006), p. 185.〕。5世紀末~6世紀初頭の歴史家ゾシモスに基づいたよくある誤解は、「コンスタンティヌス1世が一定の領域の統治のため、318年あるいはリキニウスに勝利した後の324年に道を制定した」というものである〔Morrison (2007), p. 190.〕。 テトラルキア体制下では、皇帝の権限を持つものは、2人の上位の皇帝(正帝)と2人の下僚(副帝)に増員されていた。その間、プラエフェクトゥス・プラエトリオは2人だけ存在したことを示す文献が残っている。おそらく、それぞれ正帝に割り当てられていたのだろう。 この段階では、プラエフェクトゥス・プラエトリオの権限はいまだ絶大なものであった。A.H.M.ジョーンズの言葉を借りれば、「大宰相の王にして皇帝の腹心。軍事と司法、財政と一般行政など、政府のほとんどの分野で幅広く権限を振るった。彼は皇帝の補佐官の長であり、副司令官であり、そして主計総監であった」〔Jones (1964), p. 371.〕。305年にディオクレティアヌスが退位した後は、皇帝間で内戦が勃発し、それぞれが自分のプラエフェクトゥス・プラエトリオを任命した。このパターンは、リキニウスとコンスタンティヌス1世が帝国を二分する間も続いた〔Kelly (2006), p. 186.〕。 コンスタンティヌスがリキニウスに勝利し自らの支配の下に帝国を統一した後、プラエフェクトゥス・プラエトリオの職務は変容する。純粋に軍事的な公職マギステル・ペディトゥム(, 歩兵長官)とマギステル・エクィトゥム(, 騎兵長官)の創設により、プラエフェクトゥス・プラエトリオの職務から軍事的な要素は取り除かれた。そして、宮廷の官僚社会と行政事務一般における強力な長であるマギステル・オフィキオルム(, 行政長官)の確立が、プラエフェクトゥス・プラエトリオと均衡する勢力を生み出した〔Kelly (2006), pp. 187–188.〕〔Kazhdan (1991), p. 1267.〕。こうした改革は、プラエフェクトゥス・プラエトリオの広範な職務を支えられる官吏の不足〔Jones (1964), p. 101.〕と、その強大すぎる権限が引き起こす皇帝権力への抵抗の可能性を抑制したいという要請〔Kelly (2006), p. 187.〕が生んだ結果である。皇帝に次ぐ位置という帝国のヒエラルキーにおける最上級の地位は保持していたが、プラエフェクトゥス・プラエトリオの職務は、結果として純粋に民政上のものへと転換された〔Morrison (2007), pp. 177–179.〕。 そのほかのテトラルキア体制下の慣例からの変更点としては、プラエフェクトゥス・プラエトリオ権限保持者の増員が挙げられる(332年頃には5人存在したことが確認されている)。これはおそらく、コンスタンティヌスが、自分の死後に皇帝権を4人の息子で分割することを考え、それぞれに統治する固有の領土を与えたことと関連している。後の道長官の起源は、ここに見いだせるだろう〔Kelly (2006), pp. 186–187.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「道 (ローマ帝国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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